呉座勇一「戦争の日本中世史」を読んで思い出したこと

呉座勇一は「階級闘争史観」について「言葉は悪いが、結論が先にあって、事前に決めておいたストーリーに史料を合わせていく傾向がある」と書いていた。し かし、その傾向は「階級闘争史観」だけではないと思うのだ。対極にあるのは仮説検証を繰り返しながら結論に至るというイメージなのかもしれない。しかし、仮説への思い入れが強過ぎれば、自分でも意識しないままデータを都合良く解釈 することもあるだろう。そうでなくても、仮説自体が主観に左右されやすいものであり、程度の差はあっても「階級闘争史観」と同じようなものではないかと思う。また、分析するデータの質や量が十分ではないというケースも多いだろうし、必ずしも適切な検証結果は期待できないかもしれない。

で、思い出したのだが、昔々公務員試験を意識して読んでいた法律の入門書に 「法律の解釈は、法的三段論法に当て嵌めれば自ずと結論が出るというものではない。まず妥当な結論があって、その結論を導き出すためにいかに論理的、説得的に論じるかが法律の解釈なのだ」という主旨のことが書かれていて、「歴史学は科学だ」なんて言っている人よりもよほど潔いと思った。歴史学より法律学が上等であると思った。そして私は歴史学を見限った。

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法律の解釈については米倉明「プレップ民法」に書かれていたと記憶していたが、図書館で借りて確認するとちょっと違っていた。「プレップ民法」には「この結論(実質論における結論−乙は丙に対抗しえない)を、それがあたかも規定 から導かれたかのように説明しなければならない。つまり、実質論における結論を、条文を根拠にして正当化する必要がある」「形式論による実質論の正当化ということは、裁判(法的処理)には欠かせない。そして、法解釈学はこの正当化 のやり方を研究するものだ、とすらいえるのである」と書かれていた。