法の支配

QUAD についてのニュースで「自由で開かれたインド太平洋」に触れられている。以前、書きかけて放り出していたが、ちょっと手直しして投稿することにした。

法の支配とは、権力者も従わなければならないルールがある、憲法よりも上位のルールがある、ということだろう。日本国憲法前文でも国政について述べた後に「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」とあり、憲法よりも上位のルールがあることは明らかだ。

日本国憲法にも大きな影響を与えたフランス人権宣言では「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、憲法を有しない」とされる。人権保障、権力分立は憲法よりも上位のルールとして認められるだろう。人間の自由、平等そして人民主権も同様なのだろう。


ところで、自由で開かれたインド太平洋に関連して政府与党が口にする「法の支配」とはそのようなものではなさそうだ。もしかすると国際法あるいは国連憲章のことを言っているのかもしれないと思わないではない。たしかに国連憲章の原則である主権平等とか国際紛争を平和的手段によって解決とかはそうかもしれないという気もする。しかし、国際法は対等な紛争当事国に適用されるルールであって権力関係とは関係ないだろう。国連憲章も非加盟国を拘束するものではないし、条約は憲法に優先するものでもない。人類普遍の原理というわけではなさそうだし、「法の支配」のイメージとは異なっている。


彼らが言う「法の支配」とは、これは根拠のない想像だが、理屈はとりあえず置いておいて「勝手なまねはするな」、「ダメなものはダメ」というものではないのか。そしてダメな理由を説明するのが面倒だから、あるいは説明できないから「法の支配」と言っているだけではないのか。もしかすると「法の支配」と言い切る自分がかっこいいと思っているだけではないのか。そんな気がする。


防衛研究所の「国際社会における『法の支配』の意義」http://www.nids.mod.go.jp/publication/briefing/pdf/2018/201812.pdf

 には ”「法の支配」の原理にいう「法」は、制定法・実定法だけではなく、正義を体現した普遍的妥当性 を持つ自然法的原理なども包含されていると解されているところ、当該概念は国際社会の水平的関係性と矛盾抵触することはない。よって、本来の「法の支配」にいう「法」と国際社会における「法の支配」にいう「法」を同種のものと解することに原理的矛盾はない”  と書かれているが、それは違うだろうと思うのだがなぁ

法には公法と私法との区別がある。公法は国家と国民との権力関係を規律し、私法は個人と個人との対等な関係を規律する。公法は垂直的、私法は水平的と言えるだろう。「国際社会の水平的関係性」に「法の支配」が妥当するのであれば、私法関係にも「法の支配」が妥当しそうだ。であれば、私人相互の関係(個人と企業との関係をイメージして欲しい)において人権侵害があれば憲法の規定を直接適用することが当然ではないか。しかし、通説は間接適用説。民法90条の公序良俗違反などの解釈を通じて間接的に適用する。直接適用説には私的自治の原則(契約自由の原則)を侵害するという批判があるのだ。国際法民法90条は存在しないので「法の支配」の間接適用はできず、国際法の原則を踏まえつつ愚直に説得するしかないのではないか。(「水平的関係性」だったら私法関係に例えれば良いのではないかなと思ったのだが、書いているうちに自分でもなんか違うなぁという気がしてきた、まぁいいや…)


防衛研究所の結論の部分には “国内統治の原理である「法の支配」を国内政治とは全く前提・環境の異なる国際社会に適用しようとする 場合、本稿で指摘したような一定の原理的修正が必要となる” と書かれているのだが、前提も環境も異なるのなら誤解を避けるためにも別の言葉を使うべきだろう。「原理的修正」の意味はよくわからないが、ほんの少しのちょっとした修正ではなさそうだ。そこまでして「法の支配」を使う理由は、かっこいいから?