思考実験?

中曽根元首相といえば「この顔がうそをつく顔に見えますか」という発言が印象に残っているが、「政治への情熱と執念 中曽根元首相、強い指導者像確立」と書かれるとは当時は想像もできなかった。
今現在も「死もまた社会奉仕」と評されるべきと思われる人物がいるが、もし、40年後に100歳を超えて死亡すれば、罪過なんて何もなかったことになるのだろうか。


話は変わるが、死刑について。国はなぜ人を殺すことができるのだろう? 2つの考え方があると思う。
・本来、国家は生殺与奪の権利を持っている。
・本来、国民は死刑を含む刑罰権を持っている。しかし、濫用の恐れもあるので刑罰権は国家に譲渡された。
もし、前者であれば、理由の如何にかかわらず国家が国民を殺すことは何も問題はない。しかし、現在、それは受け入れがたいので、生殺与奪の権利については触れずに、死刑制度は当然という雰囲気を作っているのかもしれない。生殺与奪の権利が根拠であれば、手続きさえ踏めば冤罪であっても死刑の執行に問題はないということになりそうだ。スケープゴートであっても秩序の回復には有効だろうし、秩序の維持は国家の重要な役割だからそれは正義だ。
二者択一なら前者よりも後者が妥当かもしれない。であれば、国家が国家の体をなしていない場合、国家は刑罰権を担う資格がないのだから、国民は刑罰権を取り戻すことができそうだ。首相の知人であれば逮捕状を執行されず無罪放免、首相は権力を私物化する、官僚もウソ、デタラメで首相を擁護する、民意を反映させようにも小選挙区制あるいは投票価値が不平等な選挙制度の下ではそれも困難、そんな状況であれば国民は刑罰権を取り戻し首相を死刑に処してもよいだろう。 いや、そうすべきだ。
うーん、どちらの考え方でも不穏当な結論になりそうだし、やはり誰も他人を殺す権利なんて持っていない、だから死刑は廃止すべき、そう考えればよいのではないかな?


(追記)
被害者感情を理由に死刑制度を支持する人がいる。被害者、遺族の感情を重視するのであれば、あらゆる犯罪の最高刑を死刑にすべきだろう。どのような犯罪であっても被害者側は死刑でも足りないと思うこともあるはずだ。 もちろん下限はそのまま上限を死刑にする。法定刑が唯一死刑というわけではないのだから問題はないだろう。